士族(しぞく)とは、明治維新以降、江戸時代の旗本と上級武士に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に‘士族’と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。
1869年(明治2年)の版籍奉還の後、藩に属する者の身分階級は華族(元大名・将軍家などの知藩事)、士族(旗本、上級武士)、卒族(足軽・同心などの軽輩)に編成された。1872年(明治5年)に編製された戸籍『壬申戸籍』に‘士族’と記載され、当時の全国集計による士族人口は全国民の3.9%であった。
なお、1884年(明治17年)の華族令で華族に爵位が導入された際、岩倉具視らを中心に士族の爵位を創設することも検討されたが、華族の五等爵をさらに増やすことによる制度の煩雑化と、公家や大名と同様、華族としての待遇を望む元勲の勢力によって、士族の爵位創設は頓挫し、明治維新の功労者らは勲功華族(新華族)として士族から昇格していった(華族は互選で貴族院議員になるなど、特権身分である)。
明治から昭和の初めまでは、明治初期からの代々の家族が全て同じ戸籍に記され、4代くらいに渡って兄弟姉妹、配偶者、其々の子供、子孫ら家族全てが記されていた。男子は結婚しても兄弟全ての家族が記され、他家に嫁いだ姉妹のみ結婚後は籍を移すが、男子が分籍することはなかった。分籍するのは何らかの特別な事情がある場合に限り、通常は大所帯の戸籍であった。士族に生まれた者であっても分籍した場合は平民とされた。これは華族も同様である。大正時代の平民宰相原敬は上級武士の家柄であったが、徴兵制度の戸主は兵役義務から免除される規定を受けるため、20歳のときに分籍して戸主となり「平民」に編入された。
士族の解体 [編集]
江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の特権は、明治政府が行う四民平等政策や、近代化政策を行うにあたって障害となっていた。1869年(明治2年)の版籍奉還で士族は政府に属することとなり、士族への秩禄支給は大きな財政負担となっており、国民軍の創設などにおいても封建的特権意識が弊害となっていたため、士族身分の解体は政治課題であった。
1873年(明治6年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年(明治9年)には廃刀令が実施された。家禄制度の撤廃である秩禄処分も段階的に行われた。士族や富裕商人だけではなく、身分を問わず苗字を付けることが認められ(国民皆姓)、異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。
士族身分の解体により大量の失業者が発生した。政府や諸官庁に勤めたり、軍人、教員などになる者もいたが、職がなく困窮する例も多く、慣れない商売に手を出して失敗すると「士族の商法」と揶揄されることもあった。政府による救済措置として、士族を職につかせる士族授産が行われたが、北海道への屯田兵移住などを除き、うまくいかない例が多かった。西郷隆盛が唱えた征韓論には失業士族の救済、という側面もあったが、西郷は政争に敗れ下野する。廃刀令以降、1877年(明治10年)の薩摩士族の反乱である西南戦争まで、各地で新政府の政策に不平を唱える士族反乱が起こった。また、初期の自由民権運動は不平士族が中心になっていた(士族民権ともいわれる)。
履歴書や『紳士録』の類には士族という記載が残り(「○○県士族」)、幾分か名誉的な意味は持ち、家柄を誇る風潮も残った[1]。墓石に「○○県士族 何某之墓」と彫った例も多い[2]。戸籍の族籍記載は1914年(大正3年)に撤廃され、第二次世界大戦後の戸籍法改正で表記しないことに定まったが原本には残っていたため、1975年(昭和50年)頃までは旧戸籍謄本を取得した場合には「士族」と明記されていた。
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